伊藤整(1905~69)の評論。昭和33年(1958)『思想』に発表。
キリスト教の神を前提とした「愛」の概念がわれわれ日本人にとっていかに異質であるかを分析し、わが国と西欧文化の違いまでを考察した名論文である。
男と女との執着を、宗教の中に設けられた愛という言葉で規定し、それと同質のものと見なそうとする傾向は、ヨーロッパ系文化の中の目立った特色である。
信仰による祈り、懺悔などがないとき、夫婦の関係を「愛」という言葉で表現することは、大きな、根本的な虚偽が実在している。
男女の間の接触を理想的なものたらしめようとするとき、ヨーロッパ系の愛という言葉を使うのは、我々には、
我々にとって男女の愛は、恋である。それを愛に同化したいという祈りの念を我々は持っていない。
日本人にとっての夫婦の愛情は、
男女の結びつきを翻訳語の「愛」で考える習慣が日本の智識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、そのために絶望を感じなければならなかったろう?
江戸時代のように男女の関係が、惚れている、恋しているという言葉で語られ、愛という怖ろしい言葉で語られていなければ、そのような時に男性に裏切られる女性の痛手ははるかに軽いであろう。
実質上の性の束縛の強制を愛という言葉で現代の男女は考えているのだ。愛してなどいるのではなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、やがて飽き、逃走しているだけなのである。