小林秀雄(1902~1983)の評論。昭和21年(1946)「創元」十二月号に発表。 詩的な文章でモーツァルトの音楽の世界を表現している珠玉の一篇である。
もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀(どうとんぼり)をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。
僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう。
兎(と)も角(かく)、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑沓(ざっとう)の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄(ふる)えた。(2)