山際素男(1929~)著。昭和56年(1981)5月、三一書房刊。
インドのカースト外カースト民である「不可触民」(現在「指定カースト民」と呼ばれる)の存在をわが国にはじめて紹介した名著。
著者が出会った体験談に、不可触民がひき逃げにあった折り、マスコミも警察もいっさい取り合わなかったというエピソードには驚愕させられる。
朝早く、わたしたちは車で出発した。
突然、どすっ、という鈍く気味の悪い衝撃音と同時に、ふわっと白い大きなものが宙に舞い、ゆるやかな放物線を描いて前方に落下した。
車はブレーキを軋ませた。と、運転手の隣で、後方を凝視していたK氏は、短く一言、「チョロ(いっちまえ)」と命じた。
わたしは憤然として「ストップ」と叫びつづけた。しかしK氏は厳しい眼でわたしを睨みつけ、一言も発しない。
……あんな悪質な轢き逃げが世間に知れぬはずはない。直ぐ新聞に載り、司直の手がのびるだろう、というわたしを、K氏は複雑な眼で見詰めた。「そんなことはないよ。轢いたのはまぎれもなく“アンタッチャブル(不可触民)”なんだから。あんたもこのことは黙っていた方がいい」
大学院の親しくなった学生に話してみた。
だが、彼も同じだった。意気投合の空気なぞ鼻くそほども生れなかった。
相手が不可触民じゃね。ほっとき給え、それが一番いいんだよ。と、慰めにもならぬことをくり返すのみである。